2022年10月29日(土) 秋ヶ瀬練習
2022年10月30日(日) 坂東練習
先週、今週と小学生チームにいくつか訪問させて頂き、体験練習会への案内をさせて頂いた。どのチームも温かく受け入れて下さりとても嬉しかった。
私は大済ツインズという杉並区の少年野球チーム出身で、私が小学生の時は大宮ジャガーズというチーム名だった。6年生の秋に悲願の東京都大会優勝を果たし、チームメイトやお父さんお母さん達と喜びを分かち合ったのは今でも良い思い出である。杉並区の各大会では堀小スワローズさんとライバル関係にあり、和田堀球場、松ノ木球場、塚山球場などを舞台に激戦を繰り広げた。あれから30年近く経った今も、各球場はあの時とほぼ変わらない姿で私を迎え入れてくれる。この度訪問させて頂いた杉並区の各チームは、ユニフォームも当時のままのチームが多く懐かしい気持ちにさせられる。
杉並区民体育祭だったか…。どの大会だったか記憶が定かではないが、決勝戦の相手が堀小スワローズさんだった。舞台は松ノ木球場。3番サードで先発出場した私は、初回のイージーなサードゴロをエラーした。それが悔しくて悔しくて「何とか取り返したい」と必死になり、逆転した回の繋ぎのセンター前、ダメ押しとなるライト前適時打と2安打を放ち、追い上げられた6回には三遊間のゴロを横っ飛びして好捕しチームのピンチを救った。自分で言うのも何だが振り返れば優勝の立役者となった私は、試合後に監督やコーチ、そして親にも沢山褒めてもらえた。しかし全然嬉しくなかった。私の中では初回のエラーがずっと頭に残って、恥ずかしくて、取り返せたとも全く思えなかった。どんなに良いプレーをしても、優勝が決まった瞬間でさえも、ずっと不服そうな顔をしていたと思う。私の小学生時代のゲームの中で、一番鮮明に覚えている試合だ。
もう一つは塚山球場で試合した対井荻小野球部戦。当時の井荻小野球部のエースは河内貴哉さん。彼は井荻小野球部卒業後に杉並シニアから国学院久我山へ進学し、1999年には広島東洋カープからドラフト1位で指名された。15年の現役生活のち、現在は広島東洋カープの一軍広報を務めている。とにかく球が速かった。その試合に1番サードで出場した私は投じられた初球に驚いた。こんなに球の速いヤツがいるのか…。何とか食らいついてファウルで粘っていたが前に飛ばない。どうにもならないから目を瞑って振ったら偶然当たって右中間へ打球が飛んだ。二塁ベース上でホッとした。足が自慢だった私は三盗して無死三塁。次打者の内野ゴロの間に生還し先制のホームを踏んだ。その後の打席は全て四球。その後も二盗、三盗を決めて、全打席で出塁し得点した。しかしそれでも8対9で試合は敗れた。当時主将だった私は監督に「キャプテンがあれだけ輝いてて何で勝てないんだ(笑)?」と言われたことを今でもハッキリ覚えている。河内さんという凄いピッチャーとの対戦と、それを相手に活躍出来たことで深く印象に残っているのだと思う。
河内さんと対戦したのはその一度切り。しかし中学進学後、杉並区の陸上大会で再会を果たした。たった一度相対しただけだったのにお互い覚えていた。中学校代表のリレーで奇しくも同じ2走を走った。私は大宮中。河内さんは井荻中。高校時代も府中市民球場などですれ違ったり、会う度に声をかけてくれて嬉しかった。その後彼は日本野球界最高峰の舞台へ。一度でも対戦した同級生が今もなお日本プロ野球界で活躍されていると思うとそれだけで何だか嬉しい。
大宮ジャガーズは1995年に済美スターズと合併して現在の大済ツインズとなった。高倉代表は私が小学生の時からチームにご尽力されていて、今でも年に数回お会いしている。この度も体験練習会の案内をさせて頂いた。卒団して30年近く経った今も私の帰る場所を守って下さっていることには本当に頭の下がる想いだ。自分を育ててくれた出身チームが無くなってしまうことほど寂しいことはない。少年野球に尽力されている人達のお陰で、日本の野球界が支えられていることを改めて実感させられる。私自身も野球界の底辺を預かる身として、東京和泉シニアと中学硬式野球発展のため微力ながら精一杯力を尽くしたい。卒団していったOB達が何か行き詰った時に帰って来れる場所を、未来永劫守っていけるようにすることが私の使命だと思っている。