2023年7月12日(水)

 

 練習 @和田堀グラウンド

 

 久しぶりに週中日にこの日記に向かった。基本的に日記は週1としているが、何かどうしても残しておきたいなと思った時には水曜日にもパソコンに向かうことがある。最近、時代が移り変わって超速のスピードで野球界も変わっていて、その変化に対応し切れていないなと感じることが多い。一生懸命にアンテナを張って時代遅れ、時代錯誤にならないようにと意識しているが、ちょっと油断すると自分の間違いに気付く時がある。中学生に対してどのように接したら良いのか?それは毎日試行錯誤であるが、じゃあ自分が小学生・中学生の時はどんなことを考えていただろうか?それをちょっと振り返っていたら、色々な思い出が蘇ってきたから忘れないうちに記しておこうと思った。

 

 私は小学2年生から野球を始めた。杉並区の大宮ジャガース(現大済ツインズ)に入団し野球人生がスタートした。当時は堀小スワローズがライバルチームで、杉並区の優勝を2チームで分け合っていた。低学年の時はその堀小スワローズに全く勝てず、準決勝までは勝ち進むがいつも高い壁に阻まれ3位に終わる大会が続いた。5年生の秋にテプコ杯という大会で初めて堀小に勝って優勝したのちは、6年生になって無敵を誇った。杉並区内の大会は11大会中9大会優勝し、秋の都大会も制した。私自身もオール杉並に選抜されて「杉並1のサード」とか言われてその気になっていた(笑)。

 

 大宮ジャガーズのチームメイトが「東京ニュータイガース(現東京和泉シニア)」というチームに入団すると聞いて、俺も俺もと私を含めた6人が一緒に入団した。小学生時代にそれなりに結果を出したつもりでいたから、自信満々で乗り込んだ硬式野球の世界。しかしその難しさに愕然とした。軟式と違う打球バウンドの感覚に戸惑い、全くボールがグラブにおさまらない。やっと捕球出来たと思っても塁間が遠くてボールが届かない。絶対的に自信のあった守備が全く通用しない。バットを持てば重たくて打っても内野の頭を越すのがやっと。軽々と外野フェンスの方まで打球を飛ばす身体の大きな先輩方を見て、俺は果たしてここでやっていけるのだろうか?と思わされた。

 

 小学生の時は低学年時からずっとレギュラーだった私だが、全く試合には出してもらえなかった。試合どころか練習すらまともにやらせてもらえない。当時使用していたグラウンドは調布の関東村にあって現在の味の素スタジアムの下に埋まっているが、グラウンドの周りは背の高さを越える草村で覆われていて、ファールボールがいくとボールが無くなってしまうから、バッティング練習時は草村の中で球拾いするのが義務だった。初めて行われた1年生の練習試合ではランナーコーチャーを務めたが、初めての経験で何をやって良いかも分からず、腕を回す格好すら先輩に笑われた。何とかベンチに入れないかと思ってスコアブックを書くことを覚えた。それでようやく公式戦のベンチに入れてもらったが、次の大会ではメンバーを外れて悔し泣きした。本当に野球を辞めたくなった。

 

 1年生の秋に転機が訪れる。徐々に身体に力が付いてきていたようで、サードからファーストに送球するボールを見て当時の監督から「ピッチャーをやってみないか?」と言われた。私はもともと小学生の時からピッチャーをやりたかったから、その言葉は飛び上がるほど嬉しかった。ストライクをとることには自信があったので、その頃から試合で起用してもらえるようになった。どれだけ打たれても憧れのポジションをやれることは楽しくて仕方がなかった。ある時、当時の監督から「俺の家まで毎日走りに来い」と言われた。小さなメモ用紙に「〇月〇日、第〇〇回、小川晋」と書いて監督の家のポストに入れに行く。往復5kmの道のりを来る日も来る日も走り続けた。大宮ジャガーズ時代からエースで4番だった望月崇史という親友も同じことをやらされ、2人でその回数を競っていた。熱を出して休んでしまおうものなら、その分回数に差をつけられてしまうような気がして嫌だった。毎日走るのは心が折れそうな時もあったが、「これで良いピッチングが出来るなら」と思ったら苦ではなかった。どんどんどんどん走れるようになることも実感出来て、運動会などでは誰にも負けなかった。

 

 中3の時には望月崇史の2番手投手というポジションは手にすることが出来た。本格派の望月とサイドハンドの私でタイプの違う投手が2人いたのはチームとして強みだったと思う。でも私はついぞ背番号1を背負うことは出来なかった。投げない試合はベンチだったし、いつも2番手投手という位置づけだった。公式戦ではダブルヘッターの時、土曜日日曜日と2日続けて試合が組まれている時にどちらかに登板するだけ。練習試合の時はいつも2試合目に登板するだけだった。

 

 最後の夏、チャンピオン大会という全国大会に出場した。ユーリーグ、ヤングリーグ、フレッシュリーグ、ポニーリーグと当時地方によっていくつもリーグが分かれていたが、その各リーグの優勝チームだけが集って日本一を決める大会だ。ユーリーグという関東のリーグ代表として私達東京ニュータイガースは出場を果たした。代表決定戦では現在も存続し現ヤングリーグの強豪チームとして活動を続けている「オール沼南ヤング」というチームを破っての出場権獲得だった。チャンピオン大会2回戦では優勝候補と言われた徳島ホークスと対戦し2対1で勝利し準決勝へとコマを進めた。望月が打っては2ランホームランで勝利打点。投げては最速129kmを記録しながら1失点完投。まさに独り舞台で大金星をあげた。

 

 続く準決勝は兵庫武庫ファイターズ。関西の名門チームとの対戦。舞台は今はなき兵庫西宮球場。先発のマウンドに上がったのは私だった。6回4失点で何とかゲームをつくったが、最終回は柴崎という3番手投手だった同級生にマウンドを譲った。柴崎がピンチをつくりながらも1イニングを耐え抜き1対4の3点差で最終回の攻撃を迎えた。それまで相手エースにピシャリと抑え込まれていたが、突然打線が繋がって3対4と1点差に迫った。なお無死満塁で6回にマウンドを降りセカンドの守備についていた私に打席が回ってきた。我がチームは押せ押せムード。この時は私もある種ゾーンに入っていたのか、ボールが良く見えていた。バッティングが苦手な私が何故か「打てる」と思った。しかしカウント3-2となって何球かファウルで粘ったのち、突然スクイズのサインが出た。「えっ、ここで?」と心の整理がつかないうちにピッチャーが投球モーションに入る。慌てて構えたがちゃんと転がすことが出来ずにファールボール。スリーバント失敗。これが私の中学時代最後の打席になった。このアウトがきっかけでチームは勢いを失い。結局あと1点がとれずに敗退した。

 

 試合が終わり、チームメイト達と共にベンチ裏ダックアウトで泣きじゃくった。でもこの時の私の心理はこうだった。「何故あの時にスクイズなんだ?どうして打たせてくれなかったんだ?打たせてくれていたら絶対にタイムリーを打ったのに」…。この考え方は自らの成長を止める。何故なら負けた原因を他人のせいにしているからである。今の私ならきっとこう考える。「何故あのスクイズを決められなかったのか?いやその前にファールにしたボールを捉えられなかったのは何故なのか?いやいやまずそもそも私が4失点しなければ勝てていたんじゃないか?」と。私はこの時の監督の采配を恨むばかりで自分の反省を全くしていない。だからどうやって4失点したかを覚えていない。覚えているのは5回のピンチの場面で外角へストライクからボールになるスライダーを投げて三振にきってとり切り抜けた場面。そしてスクイズを決められなかった場面のみだ。

 

 私はこの後、高校野球、大学野球を経験するわけだが、思い返すといつもこの心理だった。自分の悪い結果を自分の責任だと考えない思考だった。いつも誰かのせいにして、環境のせいにして、自分は悪くないと正当化していた。だから伸びなかった。失敗しても「失敗していないこと」にしていた。20代後半に、このことに気付かせてくれた当時の職場の上司がいた。それでようやく分かった。「人間なんだから失敗して当然なのだ」という本当の意味が。

 

 私はとても後悔している。ちゃんと失敗と向き合い、それを解決するために時間を使ってこれなかったことを。イチローさんも大谷翔平選手も、自分の失敗と向き合ってそれを改善する努力を繰り返している。そうやって生きているから失敗を大きな成功に変えている。私もそのことにもっと早く気付けていたら自分の野球人生が変わっていただろうなと思う。でも私が幸せなのは、遅まきながらとりあえずそのことに気付けたこと。もしそのことに気付かせてくれた上司に出逢えていなかったら、一生分からずに生きていたかも知れない。気付けたのだから、同じ後悔を教え子たちにさせないように伝えていくべきなんだと思う。

 

 能力の高いチームメイト達に恵まれて沢山のことを経験は出来たが、結局レギュラーの座は一度も奪えることなく中学時代を終えた。高校野球でその悔しさを絶対に晴らすと心に誓った。小・中とチームメイトだったメンバーも高校からは見事に散り散りになった。特にライバルと思っていた望月崇史は当時東京都で無類の強さを誇っていた帝京高校に進学することになったから、彼と対戦し勝利することを目標とした。

 

 高校時代以降の思い出も、また今度振り返ってみようと思う。

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