2023年8月9日(水)
練習休み
先週末は茨城県鹿嶋市にて合宿。そして今週末も3連休とあって、なか日にあたる水曜日練習は今週はお休みとした。8月20日(日)に始まる秋季東東京支部大会1回戦をピーキングのターゲットとしいるし、強烈な猛暑日の中で毎週活動しているから、もう身体の疲労なども考慮しながら活動していかなければいけない時期だ。
先日私の小・中学時代を思い出してこの日記に記したが、その続きとして今回は私の高校時代を振り返ってみようと思う。
私は専修大学付属高校に進学した。家が近かったのと、大学の付属高校であり野球部があったこと。それからたまたま学校見学に行った際、岩渕監督にお会いすることが出来て「この人のもとで野球がやりたい」と思ったのが大きな志望理由だったと思う。私の中学時代の9教科内申は32~35の間を行ったり来たりしていたが、当時の専修大学付属高校の推薦基準を満たしていたこともあり、受験勉強をしたくなかった私はもうそこで決めたかった。野球推薦での進学を両親が許してくれず、中学の仲間たちは夏休み中にほぼ進学先が決まっていたので焦っていた部分もあったかも知れない。付属高校ということで「大学受験もしなくて良くなる」ということも私の中では大きかった。1996年11月のことである。
1年夏、私は早くもベンチ入りして2番手投手のポジションを勝ち取った。中学時代の全国大会の舞台を経験したこと、また親友と競争したことで蓄えられた力のお陰で、高校に進学してからも1年生からどんどん投げさせてもらうことが出来た。私がベンチ入りをしたせいでメンバーを外れた2年生投手がいた。それが原因でその先輩は野球部を辞めてしまった。試合に出られないことの辛さを中学時代に経験した私にとっては何だかとてもやるせない気持ちになったことを覚えている。
中大付属高校と対した1997年夏季西東京大会1回戦。2番手投手としてマウンドに上がった私だが、サヨナラタイムリーを打たれて3年生の夏を終わらせてしまった。試合終了後に泣きじゃくる3年生を見て「本当に申し訳ないことをした」と思った。それでも3年生達は「来年頑張れよ」「必ず仮を返せよ」と言ってくれた。言われれば言われるほどキツかった。
夏、1回戦負けを経験してリベンジを誓った秋。ブロック予選を勝ち上がり本大会出場を懸けてブロック大会決勝で修徳高校と対戦。先発のマウンドに上がったのは私だった。物凄い緊張感だったがブルペンでの調子は絶好調。「これなら勝負出来る」と思っていた。マウンドに上がると緊張感が落ち着いたのを感じた。自分では「最高の状態」と思った。ところが、1球目を投じた時ボールがお辞儀した。「あれっ?おかしいな?」…、2球目を投じてもボールが走らない。仕方ないからスライダーでストライクを取りにいったが簡単にセンターに弾き返され、その後いくら腕を振ってもブルペンでの投球が戻らない。あっという間にノックアウト。確か2イニングももたずにマウンドを降り、試合はコールド負けで本大会への出場権を逃した。試合後、同級生に言われた。「大会で結果出せないね」と。
その大会後ほどなくして、岩渕監督から「これからオーバースローで投げろ。そして試合でいくら打たれても構わないからストレートだけを投げろ」と言われた。私は中学時代に親友の望月崇史の本格派に対して技巧派で生きると思い、変化球でかわすピッチングを覚えてしまった。いつの間にか「ストレートで力勝負してはいけない」と自分で自分にレッテルをはってしまっていた。修徳高校打線の事前情報として「スライダーが打てない」と言われていたが、でも私のスライダーはいとも簡単に打たれた。それはまず私のストレートに力が無かったから。岩渕監督はそう判断して「まず球威を上げよう。球威は投手をやる上で永遠のテーマだから」と提案して下さったのだ。
1998年春。当時はまだブロック予選が無く、秋の大会で2回戦まで勝利したチームのみしか春季大会の出場権は得られなかった。東西併せて80校のみで東京都春季大会は行われていた。前年秋のブロック予選で決勝までコマを進めていた我が校は1回戦で日大一校と対戦。この試合でも2番手としてマウンドに上がったが思うような結果は残せず敗戦。「大会で結果が出せない…」この言葉が重くのしかかってきた。試合後学校の教室で行ったミーティング中の私の安易な発言に対し、岩渕監督にこっぴどく怒られたこと、一語一句全て覚えている。
1998年、夏の大会まであと1ヶ月と迫った頃、「そろそろサイドスローに戻してみようか?」と岩渕監督から再提案。きっと「夏の戦力になる為にはそれしかない」と思われたのだろう。6月のとある土曜日、授業が終わった後の午後に行われた日大鶴ケ丘高校さんとの練習試合で、久しぶりにサイドスローで投球。何かぎこちない感覚だったがそれでも今までにないくらいストレートが走っていることが分かった。変化球を1球も投じることなく1イニングを無失点で投げ切り、少し光が見えた気がした。翌日日曜日、神奈川県伊勢原市にある専修大学のグラウンドに城西大城西高校さんをお招きしての練習試合。2番手でマウンドに上がった私は絶好調だった。ストレートで押し込みスライダーで空振りをとる。前年秋に修徳高校戦で体現出来なかったことが出来るようになっていた。力を付ける為にオーバースローでストレートを投げ続けてきたことが功を奏したのだろう。今思えば身体に力が付いたことも勿論だが、骨盤を縦に使うとか、サイドスローのフォームでも大事なことがオーバースローで投げ続けたことによって身に付いたのではないかと推測する。そういう力を生む身体の使い方を当時から研究していれば、もう少し良いピッチャーになれていた気もするのだが…(笑)。城西大城西高校との試合後、岩渕監督からその後私の宝となる言葉を頂いた。「ピッチャーで一番大切なことは打者に向かっていく気迫だ」と。「球威が出てきたということもあるが、今日くらい気持ちを込めて投げることが出来ればそう簡単に打たれないよ」と言って頂いた。それからもう一つ、私は「緊張しないと調子が上がらない」ことが分かった。前年秋のブロック決勝修徳高校戦、マウンドに上がった時に緊張感が落ち着いているのを感じ「最高の状態」と思ったが、私の場合は落ち着いてはいけなかった。ブルペンの時に感じていた緊張感を保ったままマウンドに上がらないといけなかった。これが夏の大会前に分かったことは私にとって大きかったと思う。
1998年夏。帽子のツバの裏に「気迫」と書き、前年まで無かった確かな力と自信を持って挑んだ。初戦の大成高校戦で先発し、2安打無四球無失点で完封した。翌日の朝日新聞でも取り上げられその記事は今でも保管してある(笑)。応援に来てくれた2つ上の先輩たちからは試合後、球場の外で「昨年の仮は返したな」とお言葉を頂いた。
次戦は四隅のシード校だった八王子高校と対戦。当時2年生から八王子高校で4番を打っていた佐藤選手は都内では有名なバッターで、私自身対戦を楽しみにしていた。私の世代で東京都で注目されたいたバッターは3人。東亜学園の松田選手、親友である帝京高校の望月、そしてその八王子高校の佐藤選手である。4回からマウンドに上がったがその時点で既に0対4の劣勢。7球の投球練習を終えてプレーボールがかかる前にキャッチャーをマウンドに呼んで話した。「打たれてもいいから真っすぐで押そうぜ。逃げてたってシード校には勝てねーよ」と。「分かった。でも打たれても知らねーからな」と言われ吹き出してしまった(笑)。正捕手が2年生で同級生だったからお互い言い易かったのもあった。打合せ通り真っすぐで押した。とにかくインサイドに攻めた。強力打線を次々と打ち取っていく。そして回ってきた佐藤選手との対戦。キャッチャーから出されたサインはインコースのストレート。大きく頷き渾身の力を込めて投じた。コース、高さ、球威、完璧だった。佐藤選手は右打者だったのでサイドスローから投じられる私のストレートはシュートして食い込んでいく。インコースは低めよりも腕が伸びない高めの方が打ちにくい。ベルトよりも少し上、見逃してもストライク、打ってもボテボテのサードゴロか、良い当たりではファールにしかならないコース。まさに私のベストボール。しかし佐藤選手はバット一閃。肘を上手くたたんで振り抜き三塁線へ痛烈なライナーを飛ばした。三塁手が横っ飛びして好捕。このたった1球。「サードライナー」という結果が私と佐藤選手の対戦だった。サードが飛び込んで捕った位置はフェアゾーン。捕れなければ間違いなく長打。あのコースをあんな風に打たれたのは後にも先にもあの時だけだ。その試合、佐藤選手はノーヒットだったが彼の凄さを感じた。八王子高校卒業後は専修大学と同じ東都大学野球リーグに所属する駒澤大学に進学し、大学でもレギュラーとして活躍していた。私は大学では4年春のリーグ戦で一度だけベンチ入りしたまでなので、神宮球場のスタンドからしかそのプレーを見ることが出来なかったが、高校時代に対戦した選手を同じ大学のリーグで見ることが出来て嬉しかった。結局この試合、私は4回~8回までの5イニングを1失点でまとめたが、序盤の失点が響き2対5で敗戦した。
八王子高校はこの大会、残念ながら甲子園出場はならなかったものの、決勝戦までコマを進め西東京大会準優勝をおさめたので確かな力があったと思う。力のある高校に力勝負して互角に戦えたことは、私の自信になった。我が校としてのこの夏の成績は3回戦敗退という結果に終わったが、私にとっては収穫の多い高校2年夏となった。
前編終わり(笑)