2023年12月27日(水)

 

 練習休み

 

 しばらく時間が空いてしまったが、練習も休みなので私の高校時代を思い出してみた。「監督の日記」に載せる意味があるのか?と一時的に思ったが(笑)、私が経験したことがこれから高校野球の世界に飛び込もうとしている25期生たちに、何か少しでも参考になればという想いである。

 

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 いよいよ高校最高学年となって迎えた1998年秋。くじシードだった我が校は2回戦からスタート。初戦となった都立淵江戦は先制されて苦しい立上りだったが、後半は自力の差で逆転勝ち。続く3回戦も順当に突破してブロック大会決勝を迎えた。相手は中大付属。私が1年夏にサヨナラ打を許して敗れた因縁の相手。勝てばブロック優勝となり都内で東西合わせて20校しか得られない神宮行きの切符を手にすることが出来る重要なゲーム。私は生まれて初めて眠れない夜を過ごした。後にも先にも試合前の緊張で眠れないという夜はこの日しかない。

 

 グラウンドに着いても緊張がほぐれない。試合前のブルペンで投球練習をしていても何か地に足がついていない感じで身体がふわふわしていた。いつも試合前は岩渕監督がブルペンに来て「ここだけは注意して投げろ」といったようなアドバイスをくれる。緊張でどうしたら良いか分からないような状態だった私は、何か縋れるモノが欲しかった。しかし岩渕監督がその時に仰った言葉は「お前等の方が力は上だからな」というだけだった。「えっ?それだけ!?」と思ってしまった。何かもっとこう、「外中心に攻めていけ」とか、「先頭打者には全神経を集中させろ」とか、「打たれていいから四死球だけ注意な」とか、何でも良いから「これだけは実行する」という心の拠り所が欲しかった。

 

 心の整理がつかないうちにプレイボール。我がチームは初回から攻勢をかけて大量得点した。確か3回を終えて7点ほどリードしていたように思う。しかし点が入れば入るほどプレッシャーが強くなった。余計に「負けられない」という想いが強くなったからだ。私はこの日、それを力に変えることが出来なかった。単純にビビっていた。案の定、試合中盤にヒットと四死球、ボークなども重なって追い付かれた。下級生にマウンドを譲ったが、下級生も打ち込まれて逆転を許す。一時的にレフトのポジションについていた私は8回途中、再びマウンドへ上がった。ベンチから岩渕監督が「気持ちだぞ」という声をかけられハッとした。ようやく思い出した。「投手で一番大切なのは打者に向かっていく気迫」だということを。とうとう地に足がついた。魂込めてミットに投げ込むという、本来の投球スタイルで挑んだ。下級生投手が招いたピンチをしのぎ、味方の反撃を待ったが及ばす、結局8対9で敗れ千歳一遇だった神宮行きのチャンスを逃した。

 

 後日、中大付属さんとは練習試合も行った。結果は20対1で勝利。力は明らかに我がチームの方が上だった。しかし本番でその力を発揮出来ない弱さが自分にあったのだと思う。私はそれから伸び悩んだ。球速は上がらないしコントロールも良くならない。四死球で自滅するということは無かったが、簡単に甘い球を投じて打ち込まれることが多くなった。投球フォームも見失ってしまい、2年生ながら夏の大会で八王子高校相手に好投した姿は見る影も無くなってしまった。

 

 高校野球最後の冬。負のスパイラルから抜け出す為には、この冬でどれだけ自分の身体を追い込めるかだと思った。生活態度から変えた。授業を真面目に聞いて、板書は全て一語一句見落とすことなくノートに書くことを自らに課した。練習メニューは何一つ手を抜かず、練習始めの体操、アップ、トレーニングといった細かなところまで見直した。走り込みの練習時は必ずトップで走り切るようにした。高校野球の練習試合が中断される12月~解禁の3月中旬まで、この生活を貫き通した。自分を変えたかった。結果学校の成績は格段に良くなった。評定平均が4.1になって、当時希望していた文学部人文学科への進学に必要な4.2まであと少しと迫っていた。ピッチングを再開した時には球威が戻り、冬の練習の成果は確実に出ていた。

 

 迎えた1999年春。初戦の相手は都立杉並高校。中学時代の同級生が何人も通う地元の学校で、友達が沢山応援に駆けつけてくれていた。この頃は春の大会に出場できるのは前年秋の大会で2回戦を突破した80校のみ。都立杉並高校が強いとは思わなかったが、そもそもゲームを壊してしまうような極端に弱いチームは出場していない。油断は出来ないと気を引き締めて試合に臨んだつもりだった。しかし先発マウンドに上がったのは1つ学年下の投手で、初回から失点を重ね苦しい立上りになった。3月中旬から解禁された練習試合で調子が良かったのもあったと思うが、勝ち上がりの先を見据えた岩渕監督の投手起用だったのだと思う。2イニング目になっても四死球で出塁を許し制球が定まらない様子を見て、早々に「ブルペンへ行って肩をつくって来い」と言われた。軽いキャッチボールから始めたが、ベンチから早くキャッチャーを座らせろという指示が飛ぶ。岩渕監督のベンチから出すジェスチャーがひどく慌てた様子で、頭の上に両手で丸を描き「肩は出来たか?いけるか?」と促してくるので、まだ5球程度しか投げていなかったが丸で返した。次打者を迎えたと同時に投手交代が告げられマウンドに上がった。私のその時の心理はこうだ。「そんなに切羽詰まった状況かなぁ?相手投手を見ればいつでも点とれそうだけど…」7球の投球練習を終えプレイボールがかかる。その初球を痛打されそれがタイムリーになって追加点を許す。十分に肩が出来ていなかったというのもあるが、何より心が出来ていなかった。「もう1点もやれない」と緊張感を持ってマウンドに上がらなければいけなかった。後続を断って攻撃中に再度ブルペンに行き肩をつくりなおした。次の回からは心も充実させてマウンドに上がり、8回まで0を並べた。しかしその間に味方が相手投手を打ちあぐねる。初回簡単に先制していたが、リードを許してからは打者陣に力みが生まれて空回り。力が上のチームが、力の劣るチームに足元をすくわれる典型的なパターンに陥っていた。1点差で迎えた最終回。先頭打者にレフト前ヒットで出塁を許す。バントで送られ1死2塁。次打者セカンドゴロの間に3塁まで進塁を許し2死3塁。1ボール2ストライクと追い込んでから投じたアウトコースギリギリのスライダーをバットの先で拾われてセンター前にテキサスヒットを落とされ万事休す。その裏の攻撃も得点することが出来ずに敗れた。確か3対5くらいのスコアだった気がするが、ハッキリとは覚えていない。あっけなく春の大会を終えてしまった。

 

 残すは高校野球最後の夏。秋はブロック大会決勝という舞台にのまれて神宮行きを失い、春は都立高校に足元をすくわれた。1年間で何の結果も出せていなかった私としても最後の夏に懸ける想いは人一倍強かったと思う。しかし夏の大会までおよそ1ヶ月半と迫っていた6月頭。体育のハンドボールの授業で左足首を捻挫した。かなり重い捻挫で全治一ヶ月と診断された。夏の大会前の大事な時期に練習が出来ないというのは痛かったが、逆に疲労を溜めることなく夏の大会に入っていけるかも知れないとポジティブに捉えることにした。約3週間が過ぎた頃、だいぶ痛みがひいて普通にプレーが出来るようになってきた。オープン戦もまだ残っていたので何とか間に合った。そう思った。しかしその矢先、今度は柔道の授業で右足首を捻挫した。夏の大会が近くなってから柔道の授業は見学だけにさせてもらっていた。ただその日は試験だったので「それだけは受けてくれないと成績を出せない」と言われて、それだけやることにした。しかし技をかけようとした時に相手が躓いたか何かして先に倒れてしまい私の右足の上に乗っかってしまった。「グキッ」と気持ちの悪い音が体中を駆け巡った。一瞬で重症だと分かった。すぐ教室に戻ってバケツに水と氷を入れて足を突っ込みアイシングを始めたがどんどん腫れ上がっていく。次の授業が音楽か何かでまた教室を移動しての授業だったが私は机から立ち上がれず動けなかった。教室に一人、机に突っ伏したまま声をあげて泣いた。「もう間に合わない…」心を落ち着かせてから生活指導室にいる岩渕監督さんのところへ報告に行った。報告中も堪え切れずに涙が溢れた。その日の練習を休み、次の日の朝登校して校門の前で野球部の同級生に会った。「お前なにしてんだよ」って呆れられた。そりゃそうだ。期末試験を終えて7月に入る頃だった。我が校は当時夏の大会前は決まって調整合宿をはるのが恒例だった。伊勢原にある大学のグラウンドを借りて、そして伊勢原セミナーハウスという大学の施設に宿泊し夏の大会に備えた。プレーの出来ない私はノックの球出しやマシーンのボール入れ、その他は歩くくらいしか出来なかった。毎日2時間おきにひたすらアイシングして回復を待った。7月10日。東西東京都高校野球夏季大会の開会式が神宮球場で行われた。最後の行進だ。その時も右足首はテーピングでぐるぐる巻きにして人工芝の上を歩いたことを覚えている。ここまでの約1か月半近く、まともに練習出来ずにこの日を迎えてしまった。

 

 最後の夏。この年もクジシードで2回戦からのスタート。相手は都立保谷高校。当時の保谷高校は力があった。4番には出口選手という強打の左バッターがいて、彼はその後立教大学に進学。六大学野球でもレギュラーとして活躍されていた。私は大学4年時に立教大学とオープン戦した際、出口選手と再会してお話しすることが出来た。「夏の初戦で対戦した」という話しで高校時代を懐かしんでくれた。話は逸れてしまったがそんな強打者を擁するチームとあって初戦から難しい試合になることは覚悟していた。もちろん私の右足は完治せず、テーピングをぐるぐる巻きにした状態。試合前ダッグアウトで岩渕監督から「痛み止めの注射は打って来たか?」と問われ「大丈夫です」と言った。しかしロクにキャッチボールすらしてこなかった今の状態でチームの命運を背負ってマウンドに立てるかどうか、それはハッキリ言って分からなかった。でも公式戦の緊張感によるアドレナリンで痛みを忘れ、一心不乱に投げれば何とかなるんじゃないかと思った。って言うかそれに賭けるしかなかった。

 

 もちろん先発は私ではなく1学年下の投手。ブルペンで勇気づける言葉をかけ続けたが、明らかにプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。無理もない。夏のプレッシャーは想像を絶する。「自分の投球で先輩達の夏を終わらせるわけにいかない」と、きっとそう思っていたことだろう。そんな大事な先発マウンドを背負わせてしまうことに申し訳なさを感じていた。岩渕監督からは「試合開始と同時にブルペンに入っていつでもいけるようにしておいてくれ」と言われていた。府中市民球場のブルペンで久しぶりのピッチング。既に緊張感で痛みは忘れることが出来た。一球目を投じた時に「痛くない。いける」そう思った。残念ながら先発投手は初回から相手打線につかまり2回途中4失点でノックアウト。すぐに投手交代が告げられ私がマウンドに上がることになった。

 

 後続を断って失点することなくその回は切り抜けたが、0対4と4点ビハインドの苦しい立上りとなった。3回、出口選手との初対戦。事前の情報でアウトコースが打てないと聞いていた。岩渕監督からは「あの4番とは勝負するな。レベルが違う。敬遠でいい」そう言われていた。ただ私は左打者へのアウトコース、つまりは右打者へのインコース、ここへの制球力には自信があった。サイドハンドの私は右打者のインコースにストレートを投げるとシュートして食い込んでいく。球速は無かった私だが、ここに投げて外のスライダーで勝負するという投球パターンを確立していた。それを3年間練習してきたお陰で左打者のアウトコースのボールもコントロールミスすることが少なくなっていた。良い打者なら勝負したい。そう思ってしまうのが投手というものだ。半ば岩渕監督の指示を無視して出口選手と勝負した。アウトローにしっかりと制球されたボールには手を出して来ない。3球で追い込んでシンカーを投じた。これをカットされた後の5球目。もう一球投じたシンカーが少し甘く入った。それを火の出るような当たりでものの見事にライト線へ運ばれ2塁打。「これはホントにすげぇや。1個でも内側に入ったら勝負にならん(笑)」と思った。「勝負するなって言っただろ!!」とベンチで叫んでいる様子の岩渕監督(笑)。でもスタンドからの歓声で何て言ってるのか分からない。でもたぶんそう言っていたと思う。それでも後続は断って無失点で切り抜けた。その後も走者の出塁は許しながらも要所を締めてスコアボードに0を並べていく。出口選手とのその後の対戦は2打席とも四球。敬遠ではなく、徹底的にアウトコースの出し入れで勝負した。絶対に1個でも内側に入らないように。もしコントロールミスするなら外に外れるように投げた。でも出口選手は見事だった。追い込まれるまでアウトコースいっぱいのボールは振って来ない。追い込まれるとギリギリのボールはファウルにしてくる。僅かでも低かったり外に外れたりすると見切られてボールになる。2打席ともフルカウントからの四球。アウトローの出し入れで打ち損じを待つ、それしか私には出来なかった。レベルが一枚も二枚も上だと分かった。

 

 何とか無失点で粘っていたら味方打線が逆転してくれて5対4となった。迎えた8回、この日最大のピンチを迎えた。ヒットと4番の出口選手への四球などで2死満塁となって迎えた対5番打者。追い込んでからもファールで粘られフルカウントとなった。押し出しでも同点とされてしまう。押し出しの四球は怖いけれど、私はここでスライダーを投げたかった。アウトローにコントロールして空振りをとれる自信があった。深呼吸をしてキャッチャーのサインを見る。キャッチャーのサインはアウトコースへスライダー。鳥肌が立った。2年生の時からバッテリーを組んできた同級生。沢山喧嘩もしたけれど、一番痺れる場面で気持ちが一つになったのを感じた。大きく頷いて投じたボールは最高のコースにコントロールされて、思い描いた通りに空振りをとって三振でこのピンチを切り抜けた。9回もヒットを浴びて走者を2人を背負ったが、タイムリーは許さず5対4で逃げ切って初戦勝利を飾った。ベンチから控え選手達が飛び出してきて、初戦を突破しただけなのにまるで優勝したかのような雰囲気。整列して挨拶したのちベンチに戻ると岩渕監督が私を抱きしめてくれた。もう涙が止まらなかった。泣いている私を見て同級生達が「勝ったのに何泣いてんだよ」って笑ってる。同級生たちにも凄く心配かけたし、夏投げられなくて終わったら、その後皆にどんな顔して生きていけば良いのだろう?と不安にもなった。まだ初戦突破しただけだけど、一応は一つ責任を果たせたと思ってホッとしたのだと思う。

 

 次の日、新聞をチェックしたら都立保谷高校は15安打を記録していた。そんなに打たれたのか…?これは卒業してから岩渕監督に聞いた話しだが、「翌日の新聞を見ることが出来なかった」と話されていた。毎回ピンチ続きで勝った気がしなかったとのこと。朝、新聞を見たら実は負けているんじゃないかと思えて怖かったそうだ。今ならその気持ちが分かる。ベンチの中の監督とは本当に精神的に堪えるモノだ。プレーしていた方がよっぽど楽。シニアの監督で私がキツいのだから、高校野球の監督はもっとだろう。

 

 何はともあれ1回戦を突破出来た。今振り返ると「一つ勝つ」って本当に大変なことだ。

 

 後編へ続く

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