2023年12月31日(日)

 

 練習休み

 

 12月29日からカミさんと息子と家族3人でUSJに行って参りました。12月30日(日)が息子の誕生日ということもあり、また普段は週末に和泉の活動に行って家族サービスが出来ていないので、年末年始くらいは家族で一緒にいたいという私の想いです。息子は6歳になりました。4月から小学生です。私も息子が何をしても可愛く見えてしまう親バカです。今日も和泉の活動はお休みですので、私の高校時代を思い出して書いてみます。

 

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 2回戦から中2日空いて迎えた3回戦。対都立忠生戦。この試合は先発マウンドに上がった。ブルペンに声をかけに来た岩渕監督は私にこう言った。「気持ちは充実しているか?」と。私は元気よく「はいっ!!」と答えた。それがマウンドに上がるうえで最も大切なこと。もう絶対に忘れない。右足首に不安はあったが、もう痛い痒いは言っていられない。緊張感がまた痛みを忘れさせてくれる。私はこの試合9回完投して8対1で勝利した。攻撃時には盗塁も決め、とにかく全力でプレーした。しかし試合後に昼食を食べている時、ドッと疲労感が襲ってきた。昼食もなかなか喉を通らなかったし、立っていた方が良いのか、横になりたいのか分からない。どうして良いか分からないくらい疲れていた。投げている時は夢中になっているから良いが、終わって緊張感から解放されると恐ろしく疲れている。大会前に約1ヶ月強ろくに練習していなかった分の影響は顕著だった。

 

 中1日で迎えた4回戦。対都立国分寺戦。先発マウンドに上がったのは初戦の保谷戦でも先発した1つ学年下の投手。初戦の保谷戦で7回と2/3、2戦目の忠生戦で9回完投した私はこの日、相当身体が重かった。そして右足首の痛みもぶり返してきた。正直キツかった。この年の都立国分寺に力があることは前情報で知っていたが、試合前に整列した時の身体のサイズ感を見て、その情報が嘘じゃないことが分かった。「西東京ベスト8に進出して日大三校に挑戦する」というこの夏の目標を果たす為には大一番になることを確信した。

 

 先発した1つ学年下の投手は保谷戦同様やはり初回からつかまってしまい、2回持たずノックアウト。0対4とまた4点ビハインドとなって交代を告げられ早くも私がマウンドへ。ブルペンでの投球練習から身体が重く球が走らない。おまけに右足首の痛みも酷くなってきてこの時ばかりは抑えられる自信が無かった。府中市民球場の3塁側ブルペンからマウンドへ走り出したとき、「これで終わるかも知れない。悔いが残らないように投げよう」そんなことを思ったことを記憶している。7球の投球練習を終え、プレイボール直前に同級生のキャッチャーが私のところに来てこう言った。「今日の審判マジで辛い。ど真ん中もストライクって言ってくれないぞ」と。1学年下の投手は球威はあったがまだ制球に不安を残す部分があったから、早い回に降板となったのはそのためかと思った。「その中で投げるのか…、今の自分の身体の状態からいくと厳しいな…」頭の中には負の感情しか浮かんでこない。しかし緊張感、アドレナリンとは凄いものだ。プレイボールがかかった瞬間、身体の疲れも右足首の痛みも自然に消えた。ブルペンとは見違えるように球が走り、制球もピタピタだった。ストライクボールに厳しい審判でもストレスにならなかった。「そこはボールね。じゃあここは?あっ、ストライクね。よし。」という具合で、審判の癖を探れる余裕があるほどだった。大会前に怪我をしてピッチング練習が出来ていなかった分、制球の感覚からは遠ざかっていた。だけど初戦と2戦目を投げたお陰でだいぶアジャストし出したのだと思う。3戦とも同じ府中市民球場だったのも大きかった。右打者のインコースにどんどん投げ込んだ。ことごとく詰まってサードゴロになる。2回に代わって以降、0を並べて味方の反撃を待った。

 

 4対4と同点となって迎えた8回表、無死1・2塁で私に打席が回ってきた。サインは送りバント。初球、2球目とファウルにしてしまい、一度打席を外して深呼吸した。「大事なバントだぞ。絶対に決めろよ俺っ!」と心の中で叫んで再びバッターボックスへ。1球ボールを挟んで4球目をサード前に転がした。三塁線から1.5mほど離れたところをファウルラインと平行に転がっていくところが見えた。私は1塁ベースに向かって走り出す。私はこの時、今も忘れぬ最大の後悔を残すプレーをしてしまう。1塁までの全力疾走を怠ったのだ。正確に言うと全力疾走することを恐れたのだ。これ以上右足に負荷をかけるともう投げられなくなってしまうんじゃないか、この酷暑のなか練習もろくにしていなかった私がこれ以上体力を使ってしまってはいけないんじゃないか、そんなことが走りながら頭の中をよぎってしまった。もちろん私は1塁アウト。結果送りバント成功で走者はそれぞれ進塁し、次打者が犠牲フライを放って勝ち越しに成功はしたものの、私はこのプレーを一生悔いている。なぜ全力を怠ってしまったのか?自分の足が壊れても走り切れば良かった。足が自慢の私が全力疾走していればサードのエラーを誘えたかも知れない。送球エラーにでもなれば満塁になるどころか2者生還というケースもありえた。大会前に怪我をしてしまうということも含めて、私の心の弱さ、甘さが出たプレーだった。

 

 1点を勝ち越して迎えた8回裏。相手の攻撃は3番から。ツーナッシングと追い込んでからボールにするハズだったシンカーがストライクゾーンに入ってしまいセンター前に運ばれ無死1塁。しかしその1塁ランナーとなった選手はピッチャーでどこかボーっとしているように見えた。相手投手も連投になっているし酷暑の中で投げているから体力的にキツイだろうと推測した。何しろ実際に投げている私が相当キツイのだから相手も同じだろうと予測しやすい。「タイミングを変えて速い牽制を投げればアウトを取れるんじゃないか?」と思った。1球ゆっくりプレートを外して緩いボールを1塁へ送る。次、セットに入って長く持ち、投球モーションに入るのと同じタイミングで素早く身体を回転させ1塁へ牽制球。タイミング、速さ、ボールコントロール、全てドンピシャ。牽制タッチアウト。1死走者無し。最高の流れだ。1点勝ち越したが一番出してはいけない「点とった後の先頭バッター」を出塁させてしまい嫌な流れになったところ、それをまた我が校の流れに引き戻すには十分過ぎるビックプレー。相手走者の様子を見る洞察力、牽制の技術、高校3年間の積み重ねが詰まったワンプレーだった。

 

 あとアウト5つ。しかしここから相手校の作戦に飲まれていった。4番打者に再びセンター前ヒットを打たれて1死1塁。またしてもツーナッシングからストライクゾーンに投げてしまって痛打された。ボールを投げようと思っているのにストライクゾーンにいってしまう。もともとストライクを集めすぎてしまうのが私の悪い癖なのだが、それよりも「早く終わらせたい」という本能的な部分で、練習不足な私の身体が勝手にボール球を投げることを拒否していたような感覚だったと今は振り返る。私の体力的にも限界が近づいていたのだと思う。続く5番打者から相手校が代打攻勢に出る。出てくる打者出てくる打者みんな左。3・4番はもともと左打者だったが、5番以降下位打線はみな右打者だったと記憶している。恐らく私が右打者のインコースを執行に攻めてほとんどサードゴロ・ショートゴロに打ち取られていたのをベンチから見ていた監督さんが、「右では打てない」と思われたのかもしれない。それからもう一つ、私の弱点を見抜かれたのだと推測する。私は左打者のインコースに投げるのが苦手だった。マウンドから見て右側、右打者のインコース、そして左打者のアウトコース、ここへの制球力には自信があったが、ベースの左側には不安があった。特に左打者が立つと懐に突っ込んでいく勇気がなく、何か当ててしまいそうな、そんな怖さがあっていつもコントロールが甘くなり痛打されるケースが多かった。だからそのリスクをかけるよりも自信のある左打者のアウトコースで勝負するようにしていた。この試合も左打者に対して、ストレートでは1球もインコースに投げていないはずだ。スライダーは何球か投じた気もするが、ハッキリとは覚えていない。それを試合中に見抜かれたのではないかと思う。もし本当にそうだと仮定したとすると、代打に送る左打者にベンチで「インコースはこない。外のボールだけ狙って打て」と指示しているハズだ。結局苦手を克服して来なかったことがここで大きく響いた。代打の5番打者に二塁打を浴びて1死2・3塁とチャンスを広げられた。これで3連打。

 

 続く6番打者にも代打。左打者がバッターボックスに入る。そしてここでまた高校時代最大の後悔の瞬間が訪れる。カウントがいくつからだったかもう覚えていないのだが、キャッチャーからウエストのサインが出た。私はスクイズ外しだと思った。頷いて投球モーションに入る。するとキャッチャーがその場で立ち上がるだけだった。つまり高めの吊り球要求だったのだ。「えっ!」と驚いた私は力を抜いて投じてしまった。ボール球ではあったが思い切り叩きつけられて前進守備の間を抜けるタイムリーとなった。4連打で5対5の同点に追いつかれなお1死1・3塁。ここで私は交代を告げられマウンドを降りることになった。まずウエストのサインがどんな意味なのかちゃんと確認しないで投球モーションに入ってしまったこと、そして驚いたとはいえ全力で投げ切れば良かった。そうすればボール球だったから本当に吊り球に空振りしてたかも知れないし、少なくともファールはとれた気がする。そうすればタイムをとって再度確認するチャンスをつくれた。想いも力も中途半端で投じたボールが私の高校時代最後の投球になってしまった。後悔してもし切れない。

 

 私の代わりにマウンドに上がったのは1年生投手。続く打者にスクイズで勝ち越しを許した。5対6。後続は絶ってくれたもののリードを許して最終回の攻撃に入った。走者は出したものの得点するには至らず5対6のまま私の夏は終わった。ゲームセットの瞬間、マウンドに都立国分寺の選手たちが集まり歓喜の輪が出来た。私はベンチで蹲って立てなかった。岩渕監督が後ろから私の肩に手を当てて「小川、整列だ。最後までちゃんとやって来い」と声をかけられた。ベンチからダックアウトに引き上げラストミーティング。岩渕監督がその時何を話して下さったのか、今はもう覚えていない。大会前に怪我してしまったことや、あとアウト5つまで迫りながらチームを勝利に導けなかったことなど、自分の情けなさで頭いっぱいだった。でも泣きじゃくる私たちの前で岩渕監督も涙を流した。後にも先にもあの人の涙はあの時しか見ていない。もともと試合後に泣くことを嫌う人だった。「自分がやるだけのことをやっていれば涙なんか出ない。お前らはまだやり切っていない。だから後悔するんだ。だから泣くんだ。泣くぐらいならもっと練習しろ!」が口癖だった。その人が泣いた。余計に申し訳ないと思った。私の高校野球最後の夏は西東京大会ベスト32で幕を閉じた。

 

 都立国分寺高校は次の5回戦も突破。我々が目標としていた準々決勝で日大三校と対戦。敗れはしたものの8対10の接戦を演じたのだから、やはり力はあったのだと思う。勝利した日大三校は決勝でこの年の秋に広島東洋カープからドラフト1位で指名を受ける河内投手を擁した国学院久我山を4対1で破って甲子園出場。2年生エースとして甲子園でもマウンドに上がった栗山投手は立正大学に進学し、私が専修大学在学中には何度も対戦することとなった。

 

 夏の大会が終わり足首の状態も悪かったので治療に専念した。でももう治しても仕方がない。試合が無いのだから。でも両親からは「大人になった時に古傷として残ると厄介だからちゃんと治しなさい」と言われた。どうでもいいと思った。一種の燃え尽き症候群だったと思う。夏の大会を終えて1ヶ月が経った頃、夏休みの最終週に日大鶴ケ丘さんとの練習試合を観に行った。後輩たちの様子が気になったし、何と言っても家が近い。試合が終了し、岩渕監督さんにご挨拶して帰ろうと思った時に、岩渕監督に声をかけられた。「お前、大学で野球やる気は無いのか?あるなら早めに俺に言って来いよ」と。実は夏の大会前、6月初旬頃だっただろうか。多分1回目の捻挫をする直前くらいだったと思う。その時も同じことを聞かれている。練習中に岩渕監督さんに私とキャプテンの二人が呼ばれ、「大学で野球をやる気は無いか?」と言われた。その時は夏の大会前だったし、正直「もう野球はいいかな」って思ってた。キャプテンも「小川やる?俺はやらない」と話していた。日大鶴ケ丘高校のグラウンドから家に帰って母親に話した。「あんたがやるって言うならいくらでも協力するよ。でも無理にとは言わない。大学行って他にやりたいことがあるならそれでも良いし」と言われた。そしてもう一つ。決定的な言葉を言われた。「でもあんた本当にこれで終わりでいいの?」と。「ハッ」とさせられた。これで終わりで良いハズがない。ハッキリ言って不完全燃焼だ。大会直前に怪我をして、ろくに練習も出来ずに夏の大会を戦った。足を気にして全力疾走を怠ってしまった走塁もあったし、全力で投げ切れなかった投球もあった。悔いだけしか残っていない。さらに、親友である望月崇史が帝京高校から青山学院大学への進学を決めていた。同じ東都大学野球リーグである。中学時代は勝手にライバル視していたが、高校では大きく差をつけられてしまった(高校2年時に甲子園出場。3年時は帝京高校の主将を務め、高校通算47本という当時の帝京高校のホームラン記録をつくった)。だけど大学で再度対戦できるようなことがあったらどれだけ幸せだろう。そんな夢も膨らんできて、とうとう大学で野球を続ける決断をした。

 

 2学期が始まってすぐ、生活指導室にいる岩渕監督のもとを訪ねた。「大学で野球をやりたいです」そう告げた。内心「言ってしまった~。これでもう後戻りは出来ない」そんな心境だった。でも岩渕監督はそれに向けて色々と丁寧に説明して下さった。野球やるなら学部は商学部を選んだ方が良いと勧められた。それまで歴史が好きだったので文学部人文学科を志望していたが、担任の先生にも岩渕監督から話して頂いた。2年生から3年生に進級する時に必要な単位の縛りが無いことと、卒論も無いから卒業しやすいという理由だった。その他、寮に入れるかどうかは聞いてみないと分からないこと、また上下関係だけでなく地方から来る同級生との横の関係の難しさなどを教えて下さった。そして最後に「1年間は絶対に辞めないことを約束しろ。1年生の間に辞めたらお前とは縁を切る。」と言われた。そして現在の私の人生を豊かにしてくれている金言も授かった。「1年生の時は諦めて先輩に尽くせるだけ尽くせ。そして自分が上級生になったら尽くさなくていいよと言える先輩になれ」

 

 私はそれから高校の練習に再び参加することになった。夏の大会前に痛めた足首も癒え、全力でプレー出来るようになった。高校がオープン戦や公式戦といった試合の日は、小学6年生時に3ヶ月間だけお世話になったミニバスの監督を通じて、大人たちが趣味として楽しむバスケットボールサークルのようなところを紹介して頂きそこで汗を流した。12月になると高校は対外試合禁止期間となり本格的な冬季練習シーズンとなる。伊勢原にある大学のグラウンドや施設をお借りして行う毎年恒例の冬合宿にも参加した。そこで岩渕監督から紹介され大学の堀田監督に初めてお会いした。グラウンドコートを着たまま挨拶をしたら、「こういう時は上着を脱いで挨拶するのが礼儀だろ!」と岩渕監督に怒られたのを今でもよく覚えている。堀田監督は笑顔で岩渕監督に対し「まあまあ、いいからいいから」となだめるように話され、私の方を見て「がんばれよ。2月からの入寮、待っているから」と声をかけて下さった。もちろん堀田監督は専修大学野球部卒業生である。岩渕監督より6歳年上。大学時代は東都大学野球リーグで優勝し全日本選手権では決勝戦で明治大学と対戦。当時明治大学のエースピッチャーだった鹿取義隆投手(高知商業→明治大学→読売ジャイアンツ→西武ライオンズ→侍ジャパンコーチ)と投げ合っている。敗れはしたものの準優勝に輝いた。当時堀田さんがバッテリーを組んでいたキャッチャーは中尾孝義さん(滝川高校→専修大学→プリンスホテル→中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツ→西武ライオンズ)である。だから岩渕監督からすれば雲の上のような存在の堀田監督に、自分の教え子に失礼があっては困ると思われたのだろう。今思えば顔に泥を塗るようなことをしてしまって申し訳なかったと思っている。

 

 年が明け、日々繰り返される高校の冬季練習には休まず出た。いよいよ明日に迫った入寮日前日。和田堀トラックでのランニングメニューの最後に岩渕監督に自ら申し出た。「最後に30mダッシュ勝負してください」「よし、やってやる」

 多分同着か、僅かに私が勝ったか…。走り終わってひとこと言われた。「お前のその足。高校じゃ一番速かったよな。でも大学行ったら普通だぞ。これから1年、大変だと思うけど頑張って来いよ。1年生の間は絶対に辞めない。これは約束だからな。」2000年、2月4日のことである。

 

 私の高校時代… 終わり

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